顧客側から見ると「究極のリブラ」は正義だ

「究極のリブラ」はどう評価されるべきなのだろうか。

 現時点のリブラ構想については、世界的・世間的に懸念の声が多いことは冒頭で述べた通りなのだが、筆者は敢えて「『究極のリブラ』こそが正義だ」という仮説を立ててみたい。

 ライバルとなる金融ビジネスや金融監督当局の側からではなく、顧客の側から見ると、「究極のリブラ」はローコストで圧倒的に便利な手段であり、これを利用できないことは、「消費者のメリットを阻害する規制(ないしは障害)」の位置づけになる。

 銀行業界には申し訳ないが、「究極のリブラ」の側から見ると、例えば送金や外国為替で、これまで、銀行は、顧客に不便(面倒な手続き、送金に掛かる少なからぬ日数・時間など)を強いながら、サービスの実体から見てひどく高い手数料を貪ってきたといえる(許認可業種だったから可能だったのだろうが)。こうした非効率的で不公平なビジネスが成立できなくなることは「いいこと」だ。

 各種の取引の決済も、送金も、借金も、資産運用も、リブラのプラットフォームの中で、高度な技術に支えられて、ローコストかつ手軽にできるようになるなら、ユーザーにとっては、既存の金融機関のサービスを利用するよりも遙かに便利だろう。

 また、マネーロンダリングの問題に関しても、取引が可視化も記録もされない、ある意味では不正の温床である既存の高額紙幣(つまり現金)よりも、「究極のリブラ」の方がよりコントロール可能なはずだ。ブロックチェーンですべての取引が記録され管理されるのだから、技術の進歩の下で不正な取引に絡む決済は管理可能になるのではないかと期待できる。

 もちろん、この際に、個人のプライバシーが問題になったり、不正を行う側との技術競争が起こったりするだろうが、同質の問題は過去にもあった。リブラに特有の問題ではないし、「すべてが記録される」という点において、リブラは、むしろ、より正しくある上で好条件を備えている(もちろん、善意の管理者が存在する場合であって、悪人がリブラを管理する場合はこの限りではない)。

「究極のリブラ」が象徴する将来の金融ビジネスは、顧客の側から見て「正義」(経済的により効率的で満足度が高い)であり、この正義は、時間が掛かっても、あるいはFacebook社以外の主体が推進者となるとしても、徐々に実現していくと考えるべきものだろう。